カルティベイティブプロジェクト ②運命的な出会い
②運命的な出会い
辻 それからもう一つ、きのう一緒に岡山に来たときに聞いたのだけれども、サッカーはプレー自体もうまくいかない競技じゃないで
すか。僕はいろいろなスポーツ選手たちと触れているけれども、バスケットなどは、どちらかというと成功率を高めていくことを
追求しているスポーツだけれども、サッカーは見ていると、うまくいかない。ミスが当たり前のように存在しているスポーツで、
その中でイライラや、うまくいかないから「チッ」みたいな感じになりそうだけれども、そうならないメンタリティを身に付けて
いったのも中・高時代だと言っていました。あの話をしてくれますか。
石川 僕がよく言われるのは、今の状態や選手をやってきた中で、引退が近くなってきたときの心の状況は、周りから見ても落ち着いて
いるとか、いつも変わらないとか。そう言われますが、もともとは感情の起伏がひどく、怒ったらとことん怒り、もうだめだと
思ったら、とことん底まで。それに自分で気づいたので、それではもったいないと、そこから少し考えながらやっていくことに
より、それが当たり前のように身についたというか。だから、例えば試合中にレフェリーが違う判定を下す。それは人間なので、
やはり怒りますよね。
辻 ムカついたりしますよね。
石川 でも、ムカついている自分に、またムカついてくるのですよね(笑)。
辻 ああ、こんなことでムカつく俺がいていいのかみたいなね。
石川 それは先ほどの話ではないけれども、例えばチームが一緒になって厳しい競争がまた増えるとか、環境は、自分ではどうしようも
できないじゃないですか。変えられるのは自分だし、だからこそ、そこのマインドに自分をもっていく。
辻 それに若い頃に気づけたのも、その後の石川君のいろいろなけが人生も含めながら、長くやってきていることにつながるだろうし、
気づけないで終わってしまっている選手たちは、スポーツ界でもたくさんいるのだろうね、きっと。
石川 見てきましたね。
辻 そうだよね。サッカーの中でも辞めていきますよね。
そのように順風満帆では全然ないのだけれども、今の人生の礎となるようなものを比較的ちゃんと学び、プロとしてFC東京で長く
やっていた。そのFC東京時代のいろいろな活動とか思い出とか、日本代表とかワールドカップ、その他、どういう時代だったので
すか。長いから、ひと言では言えないけれども、いろいろ言ってみて。
石川 自分で言うのも何ですが、ほかの選手と比べたとしても、いろいろなことがありすぎて、今その引き出しがメチャクチャたくさん
あるのですが、最初にFC東京のキャリアとしてスタートしたのもまた面白くて、自分はそのときにマリノスで試合になかなか出ら
れなかった。当時は中村俊輔選手がいたり、川口能活選手がいたり、亡くなった松田直樹さんがいたり、そうそうたる日本代表の
メンバーがいて、僕なんかは練習してミスすると、「下手くそがコノヤロー」と言われます。シュンとなってしまい、そういう中で
自分はJリーグの試合に出られない2軍ですよね。サテライトリーグというのがあり、それにも僕は15分ぐらいしか出られなかった
です。それで自分のこうしたい、ああしたいという気持ちが、自分の中でハチャメチャに出てきて。
辻 わき出てくるよね。
石川 試合が終わった後に、体力も気持ちもあり余っているので、その辺のボールをワッとかき集め、ひたすらシュート。練習ではない
です。自分の気持ちを発散するために、バッカンバッカン打っていました。そのときの対戦相手がFC東京でした。僕のプレーは15分
しかしていない。でも、その当時の監督、今のJリーグの副理事長ですか、原博実さんが、僕がバッカンバッカン蹴っている姿を見て。
辻 マリノスの君を?
石川 そうです。もともと僕のプレースタイルとかは知っていたのですが、ちょうどFC東京の右サイドの選手が相次いでけがをしていま
した。そのときに原監督と、いまファジアーノ岡山の社長の鈴木徳彦さんが当時、FC東京の強化部長でした。
辻 縁があるね。
石川 その2人で、こいつは自分が今いる現状を理解して何かをやろうとしている。そこで僕のFC東京への移籍が決まります。
辻 それ、運命的だね。何歳のとき?
石川 それは20歳のときです。もう髪の毛、金髪で(笑)。
辻 とんがっているときだね。
石川 もうとんがって、このエネルギー、どこに発散しようって(笑)。
辻 敵の監督が見ていたのも、なかなか運命的だね。
石川 しかも、FC東京がアウェーでというかマリノスのグラウンドでやって、だいたい2軍の試合は監督が来なかったりするのですが、
そのときは来てくれていて。当時、F・マリノスの監督が外国人だったので、コミュニケーションがなかなか取れませんでした。
もちろん、通訳してくれる方はいますが、僕は直接話がしたいといって、何でだと、僕、試合に出ていないのにというので、こっ
そり獲得の意思を示してくれているFC東京の監督室に話を聞きに行きました。そうしたら、いろいろな経緯があり、お前の姿が
あってけが人が出ているから、いま契約をしてくれたら、5日後に当時のナビスコカップ、今のルヴァンカップに「そこに出し
ちゃうから」と言われました。
辻 結構、簡単なものだね。
石川 いやいや、そんなことないです。あり得ないのですが、何だろうと思って。僕は競争を勝ち抜いて試合に出ることはイメージして
いたのですが、そのチャンスがいきなり訪れます。僕、2軍の試合にも出ていないのに。
辻 運があるね。
石川 僕は試合に出ようが出ていまいが、そういう準備を積み上げてきていたので、いつ来てもいいぞという状態ではいたのですが、
それでも試合に出られないときは、もちろん出られないので。
辻 でも、そういうときもエネルギーをもって、当然、若い男の子だし、目指しているし、うまくいかないとストレスがたまったり
発散したくなるけれども、ブーたれてしまったりすることはなかったということだよね。「やってられないよ」というような感じに
なったりすることはなく、常にできることを最大に一生懸命やっていると、向こうから運が来たような感じだね。
石川 そうですね。それを積み上げていけばというのが……。だから、根拠がないです。根拠はないけれども、自信がある、やっている
から何かしら訪れるだろう。
辻 やることだけをしっかりやっているから、いわゆる結果の根拠はないけれども、自分を信じられるものを常にもっている感じだね。
石川 ええ。でも、それが支えでした。それを自分ができなくなったら、もうどこに行くか分からないという怖さもあったので。
辻 常に自分のやるべきことを見つめて、目の前のことを考え、うまくいかなくてもそれに全力で向かい合っていく姿勢ですか。
石川 ただ、それを自分で考えて行動することもそうですが、僕の場合はありがたいことに、そういうものが勝手にいろいろやってき
ます。やってくるというのは、例えば現役中はけがが多かったのですが、けがを通じて自分を見つめ直す時間だったり、試合に出ら
れない時間だったり、人よりもそういうものが多く、苦しいのですが、自分がそういうものを消化する時間が非常に多かったの
ですよね。
辻 でも、やるべきことがたくさんくると、下手すると逃げたくなる人も多いじゃないですか。逃げずに、常に向き合っていける原動力は
何だったのだろうね。
石川 何ですかね。先ほどの話ではないですが、自分は認められたいし肯定されたいと誰もが思う。自分の中で納得するものを常にやってい
きたいし、そういう部分で自分に負けたくない気持ち。そして、逆にそういう気持ちでプロの中でやっていくと、本当にありがたいこ
とに、自分がチャレンジしている姿に共感して応援してくれる方がどんどん増えていく。
辻 選手生活はその後、どうだったのですか。運命的にFC東京へ行き、けがもして、7回も手術をしているのでしょう?
石川 7回やりましたね。両ひざと足首と、腰もヘルニアで。
辻 けがと付き合いながら順風満帆ではないけれども、思い出の試合とか思い出の事件とか思い出のイベントとか、いくつか紹介して
ください。
石川 ありすぎますね。何だろうな。もちろん、けがは人から見てもネガティブなものですが、僕はネガティブなものにしたくない。
辻 いつもね。
石川 はい。けがをすることは悲しいし、それこそプロの世界はそれでクビになる選手も多いので、そういう危機感を持ちながらも、自分を
見つめ直せる時間と新たな自分に生まれ変われるチャンスだという思いの中で積み上げていく。そう考えたら僕は7回オペをして、ほか
にも筋肉系のトラブルとか試合に出られない時期が長かったり、練習もできない、コストパフォーマンスが相当悪い選手でした(笑)。
辻 でも、直宏君が分かるかどうか分からないけれども、何で切られなかったのだろうね。
石川 僕自身はもちろんクラブに所属していて、FC東京のことを自分は愛していたし、よくしたいと思っていました。そして、自分はファン、
サポーターにもそういう接し方をするし、接してくれたファン、サポーターからも僕はそういうエネルギーをもらうし、ピッチで
返す。もらう。あとは、実はFC東京というのは東京フットボールクラブ株式会社という名前ですが、いろいろな組織というか人がいる
のですよね。それこそ育成から普及から、僕が今いるビジネススタッフ、あるいは事業部、グッズ関係、マーチャンダイジング、広報、
いろいろな部署があり、そういう人たちとコミュニケーションを、自分はほかの選手以上に取っていたのですよね。それがエネルギー
だし、それがチームの力だと思っていたので。
続く・・・