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2019.12.19 イベント

カルティベイティブプロジェクト ③日本代表初選出

③日本代表初選出

   
辻  そういう存在であったということ。だから、プレーヤーのときから、コミュニケーターだったのだね。すばらしい。日本代表は、
   オリンピックは行っているのだっけ。
石川 オリンピックはアテネに行きました。あのときもとんがっていたときで、僕はそのときA代表にも入っていました。22歳でA代表
   に初めて入り、そのとき監督はジーコだったのですが、A代表があり、U-23のオリンピックの代表があり、チームがあり、三つ
   掛け持ちだったのですよね。自分がA代表でいない間にオリンピック代表の合宿があったりして、そこでチームが出来上がっていて、
   アジアの最終予選のときに僕がそこにポッと入ったのですが、もうチームとしてうまく機能しているので、僕はA代表に選ばれて
   いましたけれども、試合に出られない。
辻  チームって、そんなものだよね。
石川 はい。そこでモヤモヤして、その中で競争を勝ち抜いて本選出場はしたのですが、結局、後から聞いた話だと、あのときオリンピック
   のメンバーは18人で、そのうちの2人がオーバーエイジで、小野伸二さんとゴールキーパーの曽ヶ端さん。16人がU-23という23歳以下
   の日本代表で、その中で僕がいちばん最後だったらしいです。
辻  選ばれたのが?
石川 選ばれたというか、一人ひとり名前を挙げていき、最後は僕にするか、鈴木啓太になるか、どちらかだったという話を聞きました。
辻  何歳のとき?
石川 それが23の年です。
辻  結局、日本はどうだったの?
石川 日本はパラグアイとイタリアとガーナでグループリーグを戦い、当時イタリア代表にはピルロとかがオーバーエイジでいて、
   惜しかったのですが、4対3でパラグアイに負け、イタリアに3対2で負け、予選敗退がその2試合で決まっていました。
   僕は2試合ベンチで出られなかったです。今まで積み上げてきたことは何だろうと自問自答しながらベンチにいて、日々アテネで
   過ごしていて、3戦目でやっと僕の出番がスタメンで来ました。コノヤローと思い(笑)、当時、山本昌邦監督が。
辻  山本さんが監督だったのだね。
石川 もう見返してやると思い、この1試合で僕が今までの2試合分を含め、3試合分、全部走りきる。
辻  ガーナ戦?
石川 ガーナ戦でもうガンガン行って、僕は右サイドだったですが、調子がよく、自分がパスを出してシュートを外してしまった選手もいて、
   チャンスは多くつくっていました。手ごたえを感じて、このままやりきると思ったときに、ベンチのほうを見たら交代の……。
辻  出たのだ。
石川 誰だと思ったら、自分の番号だった。こんなに調子よく、これだけ動けてチームに貢献しているのに、何で俺を代えるのだ。当時、
   交代したのが、いま横浜FCでプレーしている松井大輔だったのかな。
   そこから僕は、頭、真っ白です。監督の握手が来たのにしないで、目の前にあったペットボトルをパコーンと蹴り、
   ロッカーに1人で帰り、ロッカーをバッコンバッコンやって。
辻  ボコボコ、やっていた。
石川 泣きながら。感情むき出しみたいに。
辻  それはちゃんと後で、どうしてというのは監督が言ってくれたりするのですか。話せたりしたのですか。
石川 いや、そこは距離、置いていましたね、監督はたぶん。
   それから十数年たち僕が引退して、山本さんと会う機会はあるのですが、コミュニケーションはよく取ります。当時の話はしません。
   あまり切り出せないというか(笑)、今度聞いてみようかと思って。
辻  そうだね。それはどこかで解消してほしいね。そんな悔しい思いもあったのだね。
石川 それがアテネ、2004年です。そこからもいろいろ……(笑)。
辻  いろいろありすぎてね。引退を決意するのは、どういうきっかけと決断だったのですか。
石川 選手は誰もが引退を意識するし、僕が引退を意識したのは、2015年にフランクフルトで親善試合の時です。FC東京とフランクフルト。
   当時、乾選手と長谷部選手がいて、僕は2005年に前十字靭帯を断裂して、2006年のワールドカップは難しい。そして入れなくて、
   ドイツに思い入れはありました。行きたかったし、実際ドイツからのオファーもありました。でも、移籍はできなかった。
   いろいろなことがあり、だからドイツのピッチでプレーするのは楽しみでした。親善試合とはいえ、1人で気合が入っていて、
   それが当時、33ぐらいでした。前半、僕はベンチにいて、後半、今の日本代表の中島翔哉と2人で入り、俺たちでやるぞと気合が入り、
   後半開始たぶん10分しないぐらいかな、ジャンプして着地した瞬間に、ドイツのグラウンドは下が緩いです。
辻  やったの?
石川 前十字半月板軟骨損傷。
辻  もしかすると、それは一番大きいけが?
石川 右膝もあったのですが、それは左膝で、「ああ、もう終わった」。年齢も年齢で、1回右膝で苦しい思いをしているので、その感覚は
   自分の中で覚えている。
   そこでいろいろ考えたのですが、すっきりしません。自分はピッチの上で、ピッチに立って現役生活を終えたい。社長や監督に
   相談して、そこからリハビリが始まります。
辻  始まるのだ。
石川 前のけがも含めたら8カ月から10カ月で癒えるとイメージしていたのですが、実は前十字靱帯もその時に完全断裂したのですが、
   その前にもう3分の2ぐらい損傷していたのです。
辻  緩んでいたのですね。
石川 はい。だから、その時点で半月板軟骨の組織も全部悪くて。
辻  周りはもうボロボロだった。
石川 前十字はしっかり再建したのですが、膝自体、中の状態が悪く、結局、この写真が最後、引退した試合ですが、2015年の夏に
   けがしてからリハビリで2年3カ月ぐらいかかりました。
辻  そうなのだ。ドイツでけがしてから、その間はもう。
石川 33、34、35歳、そうですね。結局、ベテランという選手はピッチに立って存在を示し、チームを引っ張って契約を勝ち取る。
   それは若い選手もそうですが、僕はその間、試合に出られない。練習でピッチにも立てない。では、「自分の価値って何?」
   ということを常に考え、自分だけではない、クラブのこと、チームのことを考えられる時間に充てたというか。
辻  では、その頃に得たことは何ですか。
石川 得たことですか。そうだな。もう長すぎて。
辻  長いよね。
石川 でも、僕自身はもう復帰することだけを考えました。だから、引退した後のことは、実は全く考えていなかった。
辻  復帰することだけを、ひたすら考えて。
石川 はい。
辻  そのとき支えになったものは何かありますか。家族とか?
石川 家族、そうですね。自分1人では、絶対それは乗り越えられなかったと思います。家族、ファン、サポーター、チームメート。
   当時のチームは一つになりきれていなくて、結構悪い状態でした。それを外から見ていて、自分はプレーできないし、
   では、どうしたらそれが一つになるか。選手としてもそうだし、あとは人としてもビジネススタッフなり、周りの関係者との
   つながり、ファン、サポーターとのつながり、そこを考えることができた時間で。
辻  そうね。客観的にチームとはとか、選手とはとか、いろいろ見る機会には大いになったということですね。
石川 はい。
辻  運命的な引退で、駒沢で始まり駒沢で終わるということで、それもみんなに紹介してくれますか。
石川 F・マリノスからFC東京に移籍したときに、「5日後の試合、使っちゃうから」と言われて出た試合が駒沢競技場でした。
辻  東京のね。
石川 そこで僕はアシストをして、そこから十数年、試合に出続けるきっかけになるのですが、引退のときも実はこの写真、駒沢です。
   駒沢で僕が最後に十数分出て、コーナーキックでアシストをして、若い選手が決めて、勝って終わりました。だから、
   自分の中で未練は全くない。
   もちろん、プレーヤーとしてもそうですが、やりきった。
辻  やりきったときに、どんな思いが出てきましたか。最近だとイチローさんの引退会見もあるし、上原浩治さんの引退会見とかいろ
   いろあったりしますが、引退に当たり、どんな思いがありましたか。悲しみ?
石川 引退はネガティブだと思っていたのですよね。自分が選手として終えると。でも、自分の中では自分が引退した身だからという
   こともありますが、それは、また新たなスタートだし、全くネガティブなものではないなと。
辻  では、悲しみとか悔しさとか寂しさよりは、もう新たなスタートへの意気込みのような感じで。
石川 そうです。全くなかったです。もうやりきったと思っているし、何でやりきれたかというと、自分が目の前のことを一つひとつ、
   どうクリアしていこうか、どう乗り越えていこうか。
   僕は不器用なので、その乗り越え方がもうぶつかっていくように、壊して、また行って、また壊してというような感じで、
   でも一つひとつを積み上げていくことにより、いつの間にかそういう自分が出来上がっていて、引退するのは別にその積み
   上げてきたものがなくなるわけではないので、また新たな積み上げができる楽しみがあり、不安はもうやりきったからこそ、
   先ほどの根拠がない自信ではないですが。
辻  また次のステージに出て。
石川 必ずつながる。つなげようと自分は思っていました。
辻  引退会見だとよく涙とかがあるけれども、では……。
石川 笑顔でしたね(笑)。
辻  それもまたすてきだね。
石川 引退会見も、引退してから会見したわけではなく、僕は引退の半年前に引退を自分で伝えました。もうやりきる。
辻  最終試合の後、お涙ちょうだい的に花束を渡したり、娘さんが来て、「パパ、長いこと、ありがとう」みたいな泣かせよう
   とするセレモニーはなかったの?
石川 セレモニーはあり、それは泣いたのですけれども。
辻  それは泣いたのだ(笑)。
石川 でも、そこからはずっと笑顔でしたね。

続く・・・